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2011年02月19日

みさくぼ石

みさくぼ石


 ◆みさくぼ石 地頭方・水窪民俗資料館内に展示

 昭和35年8月、奥領家の田中博氏の自宅近くの坂道(門前という地名)で発見されました。
坂道の敷石の中に埋まっていた卵型の石を掘り起こしたところ、文字とも絵とも判明しかねるものが刻み込まれていました。国学院大学・玉川大学等の学者が研究を進めていてくれるとのことですが、早期に学問的な結論が望まれる“ふしぎな・不思議な”石です。この川石は水窪の地で産出される石で、長さ34センチ、巾12~20センチ、厚さ7センチ、重さ7.4キロの砂岩、表面は滑らかな表面で、丸や四角や矢印などを組合せたような記号が刻まれています。
 http://yama-machi.beblog.jp/misakuboi/cat6470433/index.html



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水窪石(みさくぼいし)
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/sonohoka3tyozindai.html

 静岡県水窪町の水窪遺跡(縄文時代の遺跡)から出土した1つの刻石に、恣意的な刻印が幾つも表面に刻まれていた。発見者は田中博氏で、昭和35年に静岡県立天竜林業高校の池本教諭が水窪石に関する調査を発表した経緯がある。その後この水窪石は、縄文遺跡から見つかった「神代文字石」「ペトログリフ石」として多くの研究家の著作に取り上げられてきた。
 中には神代文字表により「解読」を試みた者もいたが、その解読プロセスは読者側に具体的な説明がないままで、解読者の主観といわれても仕方がないものが多いので除外する。
実際の刻印であるが、石表面の中央あたりに、直線や四角形で構成された記号とも傷跡とも判然しない刻みが不規則的に見られる。この刻印だが、おそらくは表面に硬質状の材質を打ちつけたものだと思われる。文字派は、これを「古代人が、一定のコードにより何らかの意思表示を示した」とみなすが、別の見方をすれば、例えば金属器の鍛冶精錬などで打ち付けた「叩き石」(鉄器なら鉄床石など)の可能性もあるだろう。
 縄文時代には金属器はなかったのでは?という問いもあるだろう。しかし、縄文時代の遺跡から出てきた遺物が全て縄文時代の遺物かというと、そうではないはずだ。正確にこの遺跡のことをいうならば、縄文時代にも生活層があることが分かった遺跡ということであり、その上の地層には当然、それ以降の時代の生活層がある。発掘を行なう時は地表面から順に下へ下へと掘っていく訳だから、その途中で様々な時代の遺物が見つかることがある。水窪遺跡は縄文時代の遺跡として有名だからそういう代名詞がつくのだが、水窪石ははたしてどの地層から見つかったのか?それが重要である。縄文時代の層であったとしても、それが本当に原位置をとどめているか、後世の撹乱でその層に落ち込んだのではないか?という可能性も考古学では付いて回る。そういった種々の問題をクリアにしないと、縄文時代の資料として保証されないのである。
そういった流れにおいて、この水窪石の問題点をまとめると、

1、刻印自体が単純な「直線による構成」であり、並び方も規則性が見当たらず文字と呼べない。

2、刻石自体の出土状態情報が一切不明。学術調査による成果でもないので考古資料として大きく欠落している。

3、この線刻構成は水窪石のみに限られ、こういった形式に類例が見当たらない。

 1は、文字派は「文字」の定義を何としているかという問題に関わる。古今東西どのような文字であっても、文字の欠き方には一定の規則性というのが存在する。それは、文字が文章を書くための手段であり、文章を読みやすくするからに他ならない。水窪石にはたくさんの刻印がありながら、文字体系があるならば必ずそれに伴うべき文章的配列性がないのである。
 2の指し示すところは、つまり縄文時代で有名な遺跡から見つかったからといって、その石の出土状況に関しての情報が提示されなければ、このことは水窪石の製作年代を決める何の手立てにもならないということである。
 3も「文字」ということの意味に関わる問題である。文字があるということは、その担い手は相当程度の集団構成があったはずである。空間的にも、時間的にも広がりを持っていたはず。彼らが文字を使っていたならば、水窪石と同様に、石にこういった記号を打ちつけた類例が見つかるはずである。文字というのは発明された以上頻繁に使われて然るべきだから、1例2例じゃすまないはず。それが、今のところ水窪石にしかこのような特徴が見られないというのは、この石が文字としての可能性を秘めるものではないということを示唆しているのではないかと思うのである。

国内の神代文字・ペトログリフ資料

~はじめに~

むかし、日本で言われるような超古代文明や王朝といったものはあるのか?ということを自分なりに判断する一環で、日本超古代文明論でよく出てくる「神代文字」「ペトログリフ(ペトログラフ)」といったものの事例収集みたいなことをしていました。

集めて分かったのは、

・従来言われている事例のほとんどが「研究資料」としての条件を大きく欠いていること。
→実在確認が不明なものは第3者が現物に触れられず反証不能。
→記録のとり方が不十分なものが多く、やはり反証不能。
→客観化された拓本や実測図が少なく、簡易的なスケッチや主観的な方法で撮られた写真が多く、資料として使えない

・これらの事例を神代文字やペトログリフとみなす方法が、解釈者の主観に全面的に委ねられているため、他人から見て「私にはそうは見えない」と言われたら終わり、というぐらいの根拠しか持ち得ないという、資料そのものと研究姿勢そのものに対する根本的な問題。
 ということで、集めれば集めるほど、私の中でこの種の肯定論に対する信憑性・信頼性というのは瓦解していった訳ですが、とはいえ、全ての事例がそんなものばかりと決め付けるほど、私もものを知っている訳でもありません。正直この手の論からは遠ざかっているので、事例の中で判断の付かないものはそのまま分からないとしていくスタンスです。そういった事例には、もしかしたら思わぬ可能性がまだ秘められている、かもしれません。
 そしてもう1つ。神代文字と呼ばれる文字群があるのは明白な事実ですし、神代文字が生まれたことも1つの歴史であることに変わりはありません。だからその出現過程や、何で神代文字が生まれたのかということを追及するのも、立派な歴史研究だと思うのです。オカルティックだからそれに触れないというアカデミズムの姿勢は勿体ないですし、ここにこそ当時の人々の心性(神代文字が後世の作ならばその当時の創作者の思い・意図が反映されているし、もちろん真作ならば漢字以前の人々の精神観が)を理解するためのたくさんの情報が詰まっていると思います。そういう点で、この事例情報を展示しておくことに意味はあるんじゃないかと思い、昔とった杵柄をちょっと今風の考えで味付けしつつ、とりあえず展示しておくことにしました。


バール神
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/0-55.htm

 1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県水窪町で、紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じられた。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていることがわかった。バルーツとは、フェニキア民族の根拠地・シリア地方の自然神バールの女性形同一神である。フェニキアという名は民族の守護神・フェニックス(不死鳥)に由来するのだが、ガシアンは鳥=主神という意味である。同様の文字は、アケメネス朝ペルシャの円筒印章やパキスタン岩絵、インド洞窟画、中国岳神図、朝鮮石壁文字、さらには北米東海岸・ニューハンプシャー州ミステリーヒル碑文からも発見されていて、当時のフェニキア人の足跡が偲ばれる。
 フェニキア人はBC1500年頃、アルファベットを実用化した事で知られている。ユダヤ人や有色アジア人種と同じセム族で、自らはカナン人と称していた。カナンとは、東地中海のシリア・レバノン・イスラエル北部の海岸地帯を指す。彼らは海の遊牧民と言われる海洋交易民族で、トルコのビザンチオン(イスタンブール)、ロードス島、キプロス島、シチリア島、クレタ島、ギリシャのアテネやスパルタ、北アフリカ・カルタゴなど、地中海全域に根拠地を建設し、スーダンの金やレバノン杉などを交易していた。
 外洋航海の技術や知識は、クレタ流と言われる。BC2000~1700年頃に栄えたクレタ文明のミノア人も、優れた海洋民族だった。ギリシャの歴史家・ヘロドトスは、フェニキア人が紅海を発して南の海を航行し、3年目にヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を回って再びエジプトに帰ってきたと、アフリカ大陸周航の事実を記している。またフェニキア人は、当時スペインやフランスに居住していたケルト人と、鉱山開発や貿易を通じて協力関係にあった。ケルト人は、ドナウ・ライン・セーヌ・ロワール川などの河川を利用した交易集団でもあった。フェニキア船団は、ケルト人やユダヤ人、エジプト人やギリシャ人などが混在する多民族混成旅団だった。
 しかし彼らには共通の信仰があった。セム語で「主」を意味する牛の神バールである。クレタのミノッソス、エジプトのイシスも牡牛に象徴される。ユダヤ王ソロモンの玉座には、黄金の仔牛アモンが刻まれ、ゾロアスター教のミトラ神の原型もバール神である。何故牡牛なのかはよくわからないが、源流は伝説のアトランティス文明にあるとも言われている。
 さて、こうした事をふまえた上で、再びBC600年頃の静岡県水窪町に話を戻そう。当時は大和朝廷初代・神武天皇が即位したとされる頃で、出雲・丹後・大和の王朝がゆるやかに連合していた、弥生時代中期である。水窪という地は、縄文の頃から黒曜石の産地として知られていた。おそらくフェニキア船団員は、現在「糸魚川・静岡構造線」として知られている断層線に沿って、金銀銅鉄などの鉱脈を探していたのだろう。鉱山師は川筋の鉱物を見てあたりをつけ、鉱脈を探すという。水窪石は、その為の願かけだったのかもしれない。
 水窪から天竜川を源流まで遡ると、信濃国諏訪湖がある。この周辺は良質な粉鉄(こがね)(砂鉄)の産地だった。出雲神話で大国主命の国譲りに反対した息子の建(たけ)御名(みな)方神(かたのかみ)は、建(たけ)御雷之(みかず゜ちの)男神(おかみ)との相撲に負けて諏訪へ逃げるわけだが、当時から出雲国の重要拠点だったのだろう。
 鉄が日本史に登場するのは2~3Cの古墳時代だが、紀元前1800年頃からトルコのヒッタイトで使用されていたわけだから、フェニキア人たちが知らないはずはない。アムートゥという鉄は、エジプトとの間で金の5倍、銀の40倍の価格で取引されていた。お宝を探し当てたフェニキア人たちが、諏訪に住みついたと想像してみたくなる。諏訪大社南方に守屋山という名の山があるが、創世記22章の「アブラハムがモリヤ山で息子イサクを生け贄として神に捧げた」という、ユダヤ的なエピソードを連想させる名前である。
 出雲王朝は、BC1046年に牧野の戦いで周に滅ぼされた殷王朝亡命難民が主要な構成員であり、日本に弥生時代の稲作文化や銅剣・銅鐸文化を招来したと思われる。殷はシュメール古拙(こせつ)楔形(せっけい)文字に似た甲骨文字を創始し、亀甲占いを行う。なるほど出雲地方には亀甲神紋が多く、亀甲占いは皇室の秘事と聞く。
 殷はBC2070年に成立した、南方系龍蛇(ナーガ)信仰の「夏」を滅ぼし、BC1600年に成立した国だが、道教神話では夏以前の神話時代、石の巨人・磐(ばん)古(こ)、蛇身の女神・女媧(にょか)、牛の角を持つ炎帝神農の元始三皇に始まるとされる。この炎帝神農こそバール神であり、古韓国語ではスサという。牛頭(ごず)天王(てんのう)の別名を持つ「スサノオ」である。
なぜ殷王朝にオリエント・地中海世界のバール神なのか。殷族とは本来、アーリア系イン族とされる。加えてシュメールのウル第3王朝がBC2024年に滅亡した事と、かなりの関係があるように思われる。神話では易経と文字の発明は伏羲(ふくき)の役になっているが、崑崙山を越えて来たシュメール文明の末裔たちが創始したのではないかと。
 殷は天地自然の神々を信仰し、王を支える武士団が存在し、殉死の風習があった。周に殉死はない。一族の旗印は白。周は赤。民族の守護神は、フェニキア人同様に鳥(鳳凰)だった。




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この記事へのコメント
なるほど、「よく分からない」ということがよく分かりました。
Posted by 匿名 at 2011年02月19日 21:27
UFO~水窪石~神話~迷信~相対性理論~・・・・・~会長挨拶
Posted by cho8cho8 at 2011年02月20日 08:48
 
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    コメント(2)